なぜ学びたいものだけを学べないのか

たとえばインプロを学びたくて大学に入った学生がいたとします。私の大学だったらインプロの授業は週に90分の授業を1つか2つしか取れません。あとは語学や体育や憲法などの必修の授業です。インプロを学びに来て、なぜ週5日フルにインプロを学べないのでしょうか?これが最近の私の疑問です。

私は吹奏楽指揮法が学びたくて一年間アメリカに行ったのですが、そのときには週7日フルに吹奏楽指揮法を学びました。たいへんでしたが満たされた幸せな日々でした。なぜこういうふうに学べないのでしょうか?

学び方が講義型か体験型かとかはそんなに大きな差じゃないような気が最近してきています。自分が学びたくて学んでいることなのか、学びたくないのに学ばされていることなのかはとても大きな差を生むと思っています。

一方、生徒がはじめから学びたいと思っていることの幅はとてもせまいです。だから生徒が学びたいと好奇心をそそられるようなものに出会うきっかけをつくることも教師の大事な仕事だと思います。ただし、教師はきっかけをつくることはできますが、学ばせることはできません。

学びたいものを学ぶのと、これまで学びたいと思わなかったものに好奇心を持つのは一見矛盾するように思えます。でも、学びたいものを深く探求していくと、それが別のことにもつながっているのに気づき好奇心がわいてきます。世界はひとつのことが別のたくさんのことにつながり広がる形にできています。

どこから学びはじめても、それは別のたくさんのことにつながっているので、好奇心にまかせて学んでいると、結局は全世界について学んでいきます。

人ごとに最初に興味を持つことが違うので、そこから世界がどう広がるかは人によって変わりますが、そのそれぞれの世界の像を重ね合わせていくと、全世界の見取り図をつくることができます。人間は協同する性質をサバイブするために持たされています。

生徒に学びたいと好奇心を持ってもらうことはそんなにむずかしいことではないように思います。いろいろなものに興味を持ち、好奇心をそそられ、知りたくなってしまうのがそもそも人間がこの世界でサバイブするために持たされている性質なのだから。

でも、これまでの人生で、好奇心があるのに無理矢理遠ざけられた経験、好奇心がないのに無理矢理やらされた経験を積み重ね、それからもう逃れられないとあきらめて「学習」し適応してしまった人、そういう教育によって破壊されてしまった人がふたたび好奇心を持って学ぶのはとてもむずかしいでしょう。

(2019/1/21)