大学院ゼミでのベイトソンの文献講読、本のテーマが「誰かの言う答えを身につけるだけの学習をどう超えるか」なのに、教師が学生にこれが正しい答えですと言っちゃったら矛盾するので、いつもとスタイルを変え、発表者は無しにして、小グループでの議論ののち、全体でシェアするやり方にしている。
教師は、学生がわかったような感じになったら「本当にそう?」と投げかけたり、学生がわからないとなったら「それで合ってるんじゃない?」と言ったり、学生が答えを求めたら「どうなんですかねぇ?」ととぼけたり、学生をかき回して混乱させている。ジョーカー的な役割?
教師も学生も変な居心地で、いつもと違うプールに入れられたイルカのように、まごまごしています。
まぁ本当のところ、教師は正しい答えなんて持ち合わせていない。学生の前で虚勢を張って正しい答えのようなふりをして言っているだけ。学生がへぇそうなのかぁと反応しているのを見て、内心はこれで合ってるのかなとびくびくしているのが常。だから、こっちの方が嘘がないかもしれません。
答えは誰かが教えてくれるのではなく、自分で決める。正しさは誰かが保証してくれるのではなくて、自分で保証する。これが、勉強と研究の違いなのかなと思います。
そして勉強を教えるのではなく、研究を支援する教師は、それをエンカレッジするのが仕事かもしれません。
(2018/4/26)