10年前の3月11日に私が経験したことを自分が忘れないために、またひょっとしたら何か役に立つこともあるかもしれないと思い、書いてみました。
(当時のことが思い出されて辛くなる方はどうぞ読まないようにおねがいします。)
10年前の3月11日は河口湖にいました。大学院のゼミ合宿が終わり、昼に駅前でゼミ生たちとほうとうを食べて、その後、駅の隣のカフェで電車を待っていました。花粉がひどかったですが、道端には雪が残っていました。すると大きな揺れがありました。やがて停電し、駅アナウンスで電車が動かなくなるとわかり、急いで高速バスに飛び乗りました。しかし中央高速が封鎖になり、富士急ハイランド前の駐車場でバスは止まってしまいました。バスの中にずっといて、建物の天井が落ちたとか、火災が起こっているなどのニュースを聞いていました。スマホで津波予想が6mと出て、何のことかわかりませんでした。そのまま夜になり、停電のため駐車場の周りの建物は真っ暗になりました。バスだけはガソリンによる発電で明かりが付いていました。日が変わるころに、東名高速が動きはじめたという情報が入り、バスは大回りして東名高速から東京に向かいました。2時頃には渋谷周辺に着きましたが、首都高が止まった都内の道路は迎えの車であふれていました。渋滞で止まったバスの中から、東京タワーの曲がった先端の影を見ました。目的地の東京駅に着いたのは4時頃でした。長野での震度6強の地震の速報が入り、もう終わったと思いました。多くの人たちが東京駅地下の床に毛布にくるまって座っているのを見ました。やがて地下鉄が動き出すという情報が入り、丸ノ内線で新宿まで行き、そこから東中野まで歩いて帰りました。3月12日は即興実験学校のワークショップの日でした。メンバーと連絡を取り合い、緊急中止を決め、でも参加者が来てしまうかもしれないから、昼に座・高円寺に行くねと連絡し、そのまま寝落ちして夕方になっていました。メンバーは座・高円寺に行って対応してくれたと後日聞きました。起きてニュースを見て、津波で何が起こったかがわかりました。この時点では、原発のことはまだ何もわかっていませんでした。後日、キース・ジョンストンまでがメールをくれて、何かないものがあったら送るからと言ってくれました(どうやって送る?と思いましたが)。