演劇ワークショップでは、発声、滑舌、肉体訓練など基礎的なことはまったく気にしないのに、吹奏楽のときはなぜあんなに正しい奏法を気にし、まず基礎練習からしなければいけないと思ってしまうのだろう?
カラオケでは、音程やリズムのことなんてそんなに気にしないのに、吹奏楽のときはなぜあんなに音程やリズムを合わせることばっかり気にしてしまうのだろう?
そして基礎的なことや、音程やリズムをそんなに気にすることは、本当に基礎的なことができるようになることに、本当に音程やリズムを取れるようになることにつながっているのだろうか?チューナーやメトロノームに必死になって合わせれば、自分で音程やリズムを合わせられるようになるのだろうか?
そういうふうにしてつくった音楽は、聴く人に思いや感情を伝えるだろうか?聴く人の心に影響をあたえるだろうか?そして、演奏していて楽しいだろうか?
基礎が大事、音程が大事、リズムが大事と思ってしまうのは、自分が子どものときに大人からそういうふうに習ったから、自分が大人になって子どもそういうふうに教えているだけではないだろうか?
教えるという行為は慣習的になりやすい。自分が正しいと習った内容を、疑いなく次の世代に正しいと伝えてしまう。自分が習ったやり方を、疑うことなく正しいと思ってしまう。ある内容をある方法で教えようとするときに、なぜその内容で正しいのか、なぜその方法がいいのかを、探究し直したい。
そして、子どもたちには、ただある内容をある方法で教えるだけでなく、なぜその内容で正しいと私が思うのか、なぜその方法がいいと私が思うのかも、一緒に説明したい。
「吹奏楽部をサボってカラオケに行く」ということについて考えなければならない。吹奏楽部に音楽の喜びはなく、カラオケには音楽の喜びがあるからではないかと問い直さないといけない。
(2016/8/11)